表現活動にはダサいとかなくて、全て歓迎されるもの

クロマニヨンズのライブに行って
表現というものを色々考えさせられたから
シェアするね。

ライブの序盤でこんなことをふと思った。

クロマニヨンズはかっこいいな。
そういえば、私は音楽とかあんまり詳しくなくて
センスの良い人がかっこいいと言う音楽ばかりに注目してて
自分のセンスで良いと思うものに対して
これは他の人から見てセンスいいんだろうか?
これは大丈夫なセンスなのか?って
学生時代からずっと気にして見てたな。

クロマニヨンズに対しては
音楽センス良い人が良いと言っているけど
カマキリの歌とか、一旦木綿の歌とか歌ってる。
これって、私が今まで思ってきたセンスいいものと違う。
この人は本当にこの歌が歌いたくて歌ってるんだな。
センス良く見せようとかいう思惑を感じない。

そんなことをぼんやり思っていて急に閃いた。

「ああ、表現にダサいとかなくて、
全て歓迎されるものなんだ。
ダサいとかジャッジしてるのは表現者側じゃなく
受け手側が勝手にやってるだけのことなんだ。」
それに気づいてから、
安心して心を開いて全身で楽しめたんだよね。

私は、人からダサいと思われることを
恐怖レベルで相当恐れていたんだ。
幼稚園の頃に、クラスのリーダー的な女の子に
「何そのスカート、ダサい。」って
みんなの前でいきなりデカい声で言われて、
こっちはそんなこと言われるような
恨まれる覚えもないのに
いきなり傷つけられたのと悔しいのとで
「ダサい」と言われることはトラウマ級になっていた。

もう絶対誰にもダサいなんて言わせない!!!
って思って、センス良いことに食らいついてきた。
センスが良いといじめっ子からもいじめられない。
仮にいじめっ子が近づいてきても
周りの友達が守ってくれる。
私にとってはセンス良いこと
=傷つけられる出来事から心を守る武装
だったんだよね。
人をセンス良い側と悪い側に分けて見ていて
自分もセンス良い側に行きたい、
どうしたら行けるのか
常にそればかり考えて生きてきた。
社会人になってからもそこにしがみついていて
会社で自分のセンスが認められないと
ものすごく怒りを感じたり。

とにかく、「スカートダサい」事件のせいで
自分の中で「ダサいのはダメなこと」という
価値観が染み付いていた。
重力で物が上から下に落ちることと同じくらい
当然すぎて意識もしてなかったし
みんなもそう思ってると思ってた。

常に何かを見るときに
これは人から見てダサくないか?大丈夫か?
という疑いを持っていて、
ダサくない、大丈夫。と思えるものだけ見て
それ以外を排除するということを無意識にしていたんだよね。
自分の判断軸じゃなく「人から見て」だから
いつもどこか自分じゃない何かの目を気にしていて
何事も心から楽しみきれてない自分がいたんだ。

クロマニヨンズのライブで
「表現にダサいとかなくて、
全て歓迎されるものなんだ。」
ということに生まれて初めて気づいて
そこから、安心して
その世界観を楽しむことが
できるようになったんだよね。

ネガティブな自分もポジティブな自分も
良いも悪いもなく、全て自分であって
出てくる感情は自然現象と同じで
天気とかと同じで、そこにも良いも悪いもない。

クロマニヨンズのこと見ながら
こんなことを考えるのはたぶん他にいないよね。
これがきっと自分の変態性の部分なんだと思う。
今までだったらこんな普通じゃないこと
考えてる自分キモい。人には見せられない。
と思って隠してたけど
見せても良い場ができて
なんならそれを創作活動にも活かせるかもと思えてきて
今まで自分にとってゴミで邪魔でしかなかったものが
もしかしたら活かせるものなのかもしれないと思えてきてる。

こういうことも全部、
表現は全て歓迎されるものなんだと思う。

タイトルとURLをコピーしました