理解されない場で理解されようと頑張らなくていい

こんにちは。

「表現者」という言葉を聞いて
普段の自分なら自分には関係ない、というか
考えても無駄なぐらい自分にはなれないものだと
無意識に思っていたことに気付きました。

私は、表現者に、ずーーーーーーーーーっと
なりたくて、なりたくて、なりたくて
そっち側の人にずっと憧れてて
そっち側の人にずっとなりたかったんだな、と。
だけど自分には無理、
と押し殺してきたと気づきました。
ずっと自分の世界観を表現したかったんだなと。

たぶん9〜10歳のころには諦めていて
周囲の大人たちの
(親だけでなく習い事の先生とかも含めて)
無意識の心無い言葉で傷ついたことを思い出しました。

いつも何かしら自分の思う世界観を表現しようとしてたのですが
それはたぶん大人から見たら小っ恥ずかしい子供だったと思います。

傷ついて虚しい気持ちになるくらいなら
もう世界観表現するのやめよ。
どうせ人には伝わらないし自分が傷つくだけだから。
ってどこかで自分の中で決めてしまったんだと思います。
変な子と思われることをしちゃいけない空気を感じ取って。

表現者、と言われて、
自分事に思えない自分、、、
あまりにも無理な職業はピンとこない
例えば大統領になるとかみたいな感じ、
全然表現なんかできないって言う居心地の悪い感じ、
そうなれたらいいけどなあっていう羨ましい感じ
そういう感情が心の中に巻き起こりました。

そしてぼんやり考えていて
表現者かそうじゃないかは
私が思うに
作品の規模とかクオリティとかじゃなくて
「落書きをできるかできないか」
なんじゃないかななんて思いました。

その人が画家かどうかに関わらず
落書きをできる人だったら
きっとその人はもう自然にできている。
というより子供の頃から、
傷ついたり諦めることを通らずに
生きてこられたラッキーな人。

公衆便所に落書きをする人も私からしたら
「表現者のマインドを持ててる人」。

だから落書きをできる人のことが羨ましい。
そんなの描いて何の意味がある?ってことを
自分の楽しみのためだけにできるってこと。
だから落書きみたいな絵や
日常の独り言みたいな絵に惹かれるのかなと思います。

子供のころの傷ついた記憶で思い出すのが
水泳教室で、まだクロールを習ってないのに
見よう見まねでクロールっぽいことを勝手にやって
自分が思う「水泳を表現していた」。
先生に何やってんの、と冷めた感じで言われた。
だってその時間は自由に泳いでいい時間だったはず。
だから自由な泳ぎ方をしただけなのに。
ああ、習ったこと以外のことをやったら怒られるんだ
と学んだことです。

また別の記憶ではピアノの発表会で
演奏自体は習った通りに弾いて
表情や仕草で自分が思う「ピアニストを表現した」。
そうしたら、発表会後に親に言われたのが
なんで弾いてるときにニヤっとしてんの、と。
ニヤっとしたんじゃなくて、
ピアニストを表現していたの!
そんなことは言えなかった。
なんで自分がニヤッとしたか深い理由はない。
ただ自分が表現したいものは
人から見たらただニヤっとしてる変な子としか
伝わってないんだと思うと
恥ずかしさ虚しさでもうやめようと思った記憶です。

自分なりの表現をすると
人から、恥ずかしい、取るに足らない、
そういう扱いを受ける。
決まった型の範囲でやれば褒められる。

それ以来、人前で、独自のことをすることを
やめていった気がします。

独自のことをするのは怖い。
独自のことをして否定されたら
全部自分に降りかかってくる。
型の範囲でやれば、型という盾があるから
傷は少ないけど、
独自のことをするってことは
防御は一切無しで矢面に立つこと。
独自のことをするっていうのは
世界に自分の心を無防備にさらすこと。
本当は、私は心を開きたいって思っているんだなと感じました。
でも傷つくのが怖いって気持ちが勝っている。

だけど何を出しても否定せず受け止めてくれる
しょうもない、ガキみたい、自意識過剰、
そういう部分より、良いところを見出してくれる
ここは安全なシェルターだと思える、
そういう場所が1つでもあれば、
自由に表現できるのだと思います。

もう、理解されない場で
理解されようと頑張らなくていい。
そのために精神力も時間も表現も使わなくていい。

私も自分に表現することを許していいのかもな、
ご飯食べたりすることと同じように、
私にとってはそれが必要なことなのかもしれない。

きっとまだもう少し時間がかかると思うのですが
自分は表現者だと自分で思えるように、
現実の実績(絵を描くこと)を
一個一個積み重ねていければと思っています。

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